「唯一の交通手段が自転車って、ほんと勘弁してほしいわよね」
  そんな愚痴をつぶやきながら、私は海の見える丘を軽快に駆け上がる。目的地まであと少しだ。まだ暑いひざしを受けてきらきらと光っている海をよこめに見ながら、私は腰を振って自転車をこいだ。くたくたになってやっと丘の頂上に着くと、いつもどおり、先に拓がいた。
「よう、遅かったな」
  そんなことをぼやいてから、拓は屈託のない笑顔を見せる。
「しょうがないじゃない、拓の家はすぐそこなんだから。結構ここまで坂を登るの大変なのよ」
「だからおまえも越してくればいいのに」
「うるさいわねー」
  いつもと同じなにげないやりとりを繰り返した後で、何をするともなく二人で景色を眺めた。そう、この島でできることなんてほとんど何もない。残った人はもう三人だけになってしまった。
  ここでぼんやりと夕暮れの海を眺めるのは、日課になってしまっている。私が十五年間見続けてきた、あまりにも美しい風景。そして、何も変わらない風景。
  夕焼けの見える美しい丘で、私は少し思いを馳せる。

  あれはいつだったろうか、もう何年にも前になるのか、今となっては覚えていないけど。テレビのニュースで、温暖化がどうとか、南極の氷が溶けるだとか……その時は全然ぴんとこなかったのだけは覚えている。
  たぶんみんなそうだったんだろうな、あの津波がくるまでは。島の半数の人も、家も、全部飲み込まれてしまった。私の父さん母さんも……。
  時間っていうものが意味をなくしてしまって久しい。たまに押し寄せる津波、上昇する海面、船で島を出る人々。とうとう残ったのが私と、拓と、拓のおじいちゃんだけになってから、もう半年が過ぎようとしている。
  おだやかな毎日。でも物憂げで、悲しくて、たまにやりきれなくなる。そんなとき、拓の笑顔に救われる。基本的に楽観主義なのだ。
「どうしたの? ぼけっとしちゃって」
  拓の言葉でわれにかえる。どれくらい考え事してたんだろ。
「ううん、なんでもない。ごめんね。これからどうしよっか?」
「そうだなあ、そろそろ蓄えも減ってきたし、魚でも釣るかな」
「これから? 日が暮れるよ?」
「うーん、まあ、いいじゃない。大丈夫だって」
  そう言って拓はにかっと笑う。
「なにが大丈夫なんだか……」
  半ばあきれ気味の私。まあいつものことなんだけど。魚釣り、そう、時間をつぶすにはもってこいよね。これからまだ今日という日は長いんだから。
「じゃあ、ちょっと待ってろよ。道具取ってくっからさ」
「いいよ、私も行くって」
  丘にある拓の家はぽつんと建つ木造の一軒屋だ。もともと三家族が暮らしていた結構大きな家で、今は二人しか主のいない家は、やっぱりガランとして淋しいものがある。
「おじいちゃん、こんにちは」 「やあ、優ちゃんいらっしゃい」
  拓のおじいちゃんはもう六十歳を超えるけど、そうは見えないくらい元気で若い。やっぱり五十過ぎまで漁をやってた人は違うなあ。 今では私の親代わりでもあるけれど、髭面の笑顔が魅力的な人だ。拓の笑顔はこの人ゆずりだなと思う。
「おじいちゃん、あいかわらず分厚い本読んでるのね。どんな本?」
「男が無人島に漂流する、よくある話さ」
「結末は? ハッピーエンド?」
「さてな、まだ最後まで読んでないんだ。そうなるといいな」
「おーい、優、早くこいよー」
  拓のいらいらした声が聞こえた。見ると、銛と籠を手にぶらさげて、ふてくされた拓がこっちを見ている。まったく、ちょっと待たせたくらいで。子供っぽいんだから。
「これから魚釣りに行くの」
「おおそうかい、気をつけてな。また波がくるとも限らん」
「うん、行ってきます」
  そういって私は自転車を取りにいった。フレームがとても細く、赤くぴかぴかと輝いている、十歳の時に買ってもらった、私の宝物だ。手入れがいいいから、まだまだ使えそう。
「拓も自転車乗ればいいのに、そこら中にころがってるじゃない」
「そんなもんに頼らんでも十分生きていけらあ。歩くのが健康にゃ一番だって。道具に頼ると、あっと言う間にばばあになるぞ」
「うるさいわね」
「よし、海まで競争なっ」
「あ、ずるーい、待ってよー」
  そして、軽快に誰もいない町の中を走る。私たちの笑い声と、自転車の車輪の音がカラカラと響く。自転車に負けないくらい足の速い拓と、自転車に乗ってるくせに全力を出す負けず嫌いの私は、頭の中が真っ白になるくらい必死に海までの道を駆けていった。

  薄闇に包まれた海辺は、季節がまだ夏だからだろうか、まだ結構明るい。とは言ってもこの温暖化のせいで、一年中夏みたいな気候だけど。もう私は雪ってものを見ることができないまま死ぬのかな。 まあ、寒いのは苦手だからありがたい気もする。
「だから言ったろー、大丈夫だって」
  拓は勝ち誇った顔で、さっそく釣りを始めた。魚は貴重な食糧源だ。家畜を育てる人もいなくなり、食糧は、三人で育てる米と、魚と、せいぜい木の実くらいだ。ほんとはもう魚には飽き飽きなんだけど、我慢して食べるしかない。
  あまり食糧の調達ができない私は、もっぱら食事当番だ。こんなときの為に母さんに料理を習っておいてよかった。出来に自身はないけれど。
「よっしゃー、さっそく一匹目ゲット!」
  さっそく捕まえたらしい。うれしいんだか悲しいんだか……。夕暮れの海は波の音だけが静かに響いて、そこだけ時が止まっているようだ。でも、時は前に進むことはあっても、昔に戻ることはない。その日暮らしに精一杯で、とても先のことを考えるゆとりなんてないけれど、私の人生はこれからも続いていく。
  島を出ていった人たちは、新しい土地を見つけられたんだろうか? 父さん母さんは、どこかで私を見守っているんだろうか? 私は……
「どうしたの? ぼけっとしちゃって」
  拓の言葉でわれにかえる。たまらなくなり、私は泣いた。