「島を出ようと思うんだ」
  唐突にそう言うと、優は目をキョトンとさせて僕の方を見た。
「え……?」
「島を出るんだ」
  僕はもう一度繰り返す。
「だって、ちょっ……そんな急に」
「急にじゃないよ。ずっと考えてたことなんだ。津波がきてからずっと。優にだって言ってきたろ?」
「確かにそうだけど。いつも冗談めかして……」
「今度は冗談じゃない。もう決めたんだ。もちろんいっしょにきて欲しいけど、僕は一人でも行く」
  優の困惑した顔が見てとれる。それはそうだろう。自分では考えないようにしてたことだろうし。切実に一緒にきてほしい。でも決めるのは僕じゃない。一歩を踏み出すには自分の力が必要だ。
「実は準備も進めてるんだ。小型の舟に食糧を積みこんだりして」
「出発は一週間後にするつもりだから、それまでに行くかどうか決めてほしい。荷物は一応用意しておくから」

  それからの一週間はとても慌ただしく過ぎた。用意するものは食料だけじゃない、いろいろある。地図、コンパス、帆の換え、寝具、その他もろもろ……そして両親の写真。
  その間、優とはあまり話をしなかった。意識的に避けられているようだったし、僕は僕でやることがいっぱいあった。
  島のいろんなところを見て回る。今まではちっぽけな島だと思ってたけど、あらためて見るとこんなに大きかったのかと驚かされる。もう日が暮れる。明日は出発の予定の日。最後に行く場所は決まっている。
  僕の家の裏にある山。そのてっぺんにある一本杉。そこから眺める景色が一番好きだった。

「ふぅ……もうすぐ頂上だな」
  なんとか日が落ちるまでには間に合ったみたいだ。夕焼けの見えるこの美しい景色も見納めだ。水面まで夕日と同じ橙色にきらきらと光っている。とてもきれいだ。今までずっと、海といっしょに暮らしてきた。自分を守ってくれていた。生命に溢れた、とても大きな存在。
  一人でここを出る? できるんだろうか? この大きなものに、一人で?

  てっぺんに誰かがいるのが見える。予想もしてなかったことに驚きながら、僕は足早に駆けつける。
「優……」
「遅かったじゃない。待ちくたびれちゃった」
「……」
「きっとね、拓ならここに来ると思ったの」
「よく二人でいっしょに登ったよね。さすがに一番上までは無理だったけど、拓は落ちて怪我したこともあったっけ」
「この大きな木は私の成長の証なの」
「え……?」
「ここを見て。私が伸びだ背の分だけ印をつけてたの」
  杉の木の裏側には、刃物で削った無数の小さな無数の切り痕があった。今まであまりにさりげなくて気づかなかった。でもそのキズは、確かに天に向かって少しづつ伸びていた。
  それは、紛れもなく、人が生きてきた証だった。

「今まで私は縛られてたの。そう、自分がこの場所にいなくなるなんて考えられなかった」
「でも、ここにいないと、大きくなれないわけじゃない。どこにいたって、何にだってなれるのよね」
  優は言った。
「私も行くわ」

  そして出発の朝。
  快晴。南向きの風。大陸に向かうにはもってこいの気候だ。港で最後の準備を終えた僕は、優と爺ちゃんを向かえに行く。
「お――い、用意できたよ! さあ、出発しよう」
「――うん、行こう!」
  優が僕家の縁側から駆けてくる。……けど、一人やって来ない。
「爺ちゃん……」
「すまんな、拓。俺は……行けないよ」
「そんな……今さらなんで!優が行くなら、爺ちゃんも来るって言ってたじゃないか!」
「……悪かった。始めから、行く気はなかった」
「いやっ、おじいちゃん!」
  優も叫ぶ。
「お前達は行くがいい。これからの人間だ。俺は、もう終わった人間だ」
「でも……なんで……」
「俺の住む世界はここなんだ。ここには、俺のすべてがある。ここで生まれ、ここで育ち、ここで生きた。お前の親が生まれてきて、そして孫を授かって、俺は、毎日が幸せだったよ。すべての思い出がここにあるんだ。ここで生きていたいんだ」
「爺ちゃん……」
「さあ、行くがいい。お前達ならできるさ」
  涙が溢れてきた。優も泣いている。
  もう二度と会えないだろう。最後に残った、僕の大事な肉親。今までずっと守ってくれてた。そんな爺ちゃんを、一人置いて? そんな……  爺ちゃんが叫んだ。
「行けっっ!」
  僕は泣きながら、大きく頷いた。
  優の手をとって海へ向かって駆け出した。二度と振り向かなかった。振り向いたら、もう離れられなくなるから。

  誰もいない港に着くと、船に飛び乗り、船のロープをはずし、イカリを上げた。ゆっくりと船は動きだす。少しづつ、少しづつ陸を離れていく。島が遠ざかる。だんだんと小さくなっていく。
  島を回って、大きくて驚いた島が、僕の手におさまるくらい小さくなる。これから僕は、広い世界に飛び出して行くんだ。
  この先どうなるんだろう、僕は優を守っていけるんだろうか。それより、新しい土地へたどりつけるんだろうか……。
  優を見ると、ぼくを見て屈託なく、微笑んだ。
  僕は大きく深呼吸をして、帆をあげて海とへ飛び出した。

  ためらいはなかった。